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室町時代
珠洲市大谷町
指定面積 50平方メートル
県指定史跡 昭和14年12月27日指定
能登半島の先端に近い珠洲の内浦と外浦を結ぶ大谷峠の谷間に、八基の五輪塔が建っている。そのうちの六基はほぼ五輪塔形を整えているが、あとの二基は五輪塔の火輪や水輪を積み重ねたものである。向かって右の一号塔からその高さを見ると、一号塔:94.8cm、二号塔:98cm、三号塔:84.8cm、四号塔:89.2cm、五号塔:72cm、六号塔92.6cmを測る。
この五輪塔群が、前権大納言(さきのごんだいなごん)平時忠とその一族の墓と伝えられている。時忠は文治5年(1189)に没しているが、この塔は形式的にみてその当時のものではなく、室町中期の頃にその末裔が建立したものと理解するのが穏当な見かたであろう。
時忠の末裔と称する則貞氏が、山深いこの地に家をかまえて、ひそかにこの墓所を守りつづけている。
昭和60年「石川県の文化財」より
小松市大領町
指定面積 420平方メートル
県指定史跡 昭和16年7月26日指定
木場潟湖畔に近く、慶長5年(1600)8月に、関ヶ原合戦の前哨戦として、徳川方についた金沢城主前田利長軍と豊臣方に属した小松城主丹羽長重軍が戦った古戦場。
大聖寺城を攻略した前田方が会津に赴くため、軍を寺井三道山にまで引きあげたとき、最後尾部隊であった長連竜隊が、ここで丹羽軍の急襲を受け9名が戦死、この後、丹羽軍は山代橋で前田勢の逆襲を受け敗北している。浅井畷と山代橋での戦功により、加越能三国の領有が認められているから、前田氏にとっては記念すべき古戦場だといえよう。
約200平方メートルばかりの土地に、鹿島路六左衛門、柳弥平次らの九基の墓碑が残るが、うち一基は万治三年(1660)に、他は後に若杉の十村役林八郎兵衞が、戦死者の倒れた位置に倒れた方向にむけて建てたものと伝えられている。
昭和60年「石川県の文化財」より
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