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羽咋郡宝達志水町御舘ワの部ほか
県指定史跡 平成18年4月7日指定
御舘館跡は、宝達山から派生した標高約36mの舌状台地上に位置し、北を大坪川、南を杓田川に挟まれた要害の地にある。本館跡は、一辺約80m四方の主郭を中心に、北側副郭、東側副郭の三つの曲輪で構成される。その範囲は、東西約300m、南北約200mと広大で、遺構の遺存状態も極めて良好である。
主郭には、上幅約6.5~12m、下幅約2.7~5.5m、深さ約3~5.5mの大規模な二重の堀が巡り、堀の間には幅約8.5m、高さ約2.5mの土塁が遺存し、堅固な構えがうかがえる。北側と東側の副郭は、主郭の堀や土塁にみられる大規模な拡張に伴う防御機能強化の際に付け加えられた可能性が指摘されている。
発掘調査は、主郭内部と堀、土塁を中心に実施され、掘立柱建物、柵列、井戸、焼土坑などを確認している。出土遺物は、土師器皿が全体の9割以上と圧倒的多数を占め、その他に珠洲焼、越前焼、瀬戸・美濃焼等の国産陶器、青磁、白磁などの貿易陶磁器などがある。
本館跡の存続年代は、南北朝時代から室町時代及び戦国時代であり、14世紀後半~15世紀前半と16世紀後半の二時期に盛期をもつ。
石川県の平地に築かれた館跡は、伝承地を含めて約350カ所が知られるものの、多くは後世の開発で失われ、その規模や変遷を明らかにできるものは極めて限られる。
本遺跡は、平地に築かれた館跡として、その規模の大きさ及び遺存状態 の良好さで県内に類例がなく、あわせて、地元の人々によって大切に守ら れてきた貴重な遺跡であり、文化財的価値は高く、史跡に指定し、その保存を図ることが必要である。
津幡町字竹橋、下中、原、上藤又地内
県指定史跡 平成21年4月28日指定
江戸時代の北国街道は、古代律令制で確立した、日本海沿岸を経て東北に至る主要幹線道「北陸道」に端を発しており、「北陸道」、「北国路」、「北国往還道」とも呼ばれる。
北国街道倶利伽羅峠道は、古来から加賀、越中の国境に位置する交通の要衝として知られる山越えの道であり、竹橋宿(津幡町字竹橋)から森村(同字山森)、倶利伽羅村(同字倶利伽羅)を経て、富山県小矢部市石坂、埴生に至る経路をとる。そのうち、現在、津幡町道竹橋倶利伽羅線の一部となる、竹橋集落の東側約1キロメートルの地点から山森集落の西側約700メートルの地点までの延長約1.9キロメートルの尾根伝いの道は、大規模な道路の拡幅や路面舗装がなされず、また、尾根筋には切り通しが良好に残るなど、江戸時代の街道の原状を良好に保っている。
県内の北国街道が、明治時代以降の道路の拡幅や路面舗装により、延長約75キロメートルの大部分が大きく変容する中で、この延長約1.9キロメートルの道については県内で最も長い経路で江戸時代の街道の姿を良好にとどめるものである。これは、明治11(1878)年に天田峠を越える新道が建設され、交通の要衝の役割が移動したことによる。
このように北国街道倶利伽羅峠道は、県内で最も長い距離で江戸時代の街道の原状を保った貴重な道路遺構であり、その文化財的価値は高く、史跡に指定し、その保存を図ることが必要である。
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