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更新日:2023年6月20日

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その他の事業(30年度)

事業概要

  • 平成30年度は、金沢城公園整備事業(県公園緑地課所管)に係る鼠多門・鼠多門橋と本丸附段・北ノ丸等の発掘調査及び出土品整理、報告書作成を行ったほか、石垣現況測量を実施した。
  • 鼠多門・鼠多門橋の確認調査は、金沢城公園第三期整備事業に伴うもので、次頁以降に概要を示した発掘調査のほか、平成29年度発掘調査の出土品整理等を実施した。また本丸附段・北ノ丸の埋蔵文化財確認調査(平成10・12年度)、いもり坂脇石垣の試掘調査(平成20 年度)、玉泉院丸北石垣の立会調査(平成24年度)に係る報告書を刊行した。
  • 石垣現況測量については、数寄屋屋敷西堀縁、玉泉院丸北泉水縁、土橋門、尾坂門北東石垣の三次元計測等を実施した。

鼠多門・鼠多門橋埋蔵文化財確認調査

調査の概要

  • 調査期間:平成30年4月26日~8月31日
  • 調査面積:120平方メートル
  • 平成26年度から開始した、金沢城公園第三期整備計画に係る鼠多門・鼠多門橋復元整備に伴う遺構確認調査の最終年度である。これまでに復元整備の基礎資料となる鼠多門・鼠多門橋の範囲や規模、構造を明らかとしてきたほか、鼠多門へ至る坂道の部分についても調査を実施し、その構造等を確認した。5年間の調査面積は累計で2,300平方メートルである。
  • 平成30年度は、鼠多門の南東に位置した番所、南側にあった排水施設等についての補足調査、側壁石垣の復元工事に係る立会調査、鼠多門の北側に位置する櫓台石垣の測量調査を実施した。
  • なお、調査にあたっては、金沢城調査研究埋蔵文化財専門委員会委員及び伝統技術(石垣)専門委員会委員の現地指導を受けた。

補足調査 

  • 排水遺構地点の調査については、近代に改修された江戸期の暗渠排水を、復元する鼠多門の排水施設の一部として使用することが検討されていることから調査を実施したものである。暗渠排水の吐水口部分は、戸室石製の石樋が鼠多門の西側の石垣から約30センチメートル突き出る構造となっており、その下には受けとなる施設が存在していたとみられるが、調査は未実施である。
  • 石樋の長さは約150センチメートルで、厚さは約50センチメートルあるが、樋となっている部分の内法の幅と深さはいずれも約20センチメートルとなっている。この石樋1石のみが江戸期の遺構であり、これより東側は近代に付加された凝灰岩製と戸室石製の板石となっていた。石樋の傾斜は約1.4度と緩傾斜となっているのに対して、近代に付加された部分は約18度の急傾斜となって、近代の排水溝と接続していたものとみられる。

  • 番所地点の調査については、整備で番所遺構の平面表示をすることから、その位置と規模の把握を目的とした。平成29年度の調査において、鼠多門の坂道部から番所へと上がる石段遺構を検出していたことから、番所の概ねの位置については推定できていたこともあり、その範囲について重点的に調査を行った。
  • その結果、番所があった地点は、近代以降の改変を受けていたことから、江戸期の礎石等の遺構の遺存状態が悪く、番所の規模を確定することはできなかったが、番所の敷地を画するとみられる基壇状の遺構を確認した。青線で囲った一辺約4.8メートルの範囲がそれにあたり、一辺約1.2メートルの青線で囲った範囲が、番所に付随する厠の範囲と推定した。これらの範囲は石列によって区画されており、使用されている石材は平らな面を外側に向けているものが多く、川原石や戸室石、凝灰岩で構成されている。石段へ向かう北側では石列の遺存状態は悪く、ほとんど残っていなかったが、石材を取り除いたとみられる痕跡を確認した。西側で確認した石列については、途中で軸線がずれており、時期差を示しているものと考えられ、近代になって変えられたものではないかと推定している。
  • 厠の範囲を区画したとみられる部分では、埋甕が存在していたような痕跡は確認していないことから、桶等が直接置かれていた可能性も想定できる。
  • また、後述する旧陸軍監獄署の建物基礎の下から、平成29年度の調査において、江戸初期にまで遡る可能性のある礎石群を確認していたが、それらについて調査を実施した。

  • 検出した礎石は、いずれも表面が赤く変色しており、被熱しているものと見られる。礎石1・2には墨出し線が見られ、先の固い尖ったもので罫書をしている。礎石1は「十」、礎石2は「十」の周囲を「◇」で囲む。礎石1・2の「十」の中心を結んでその長さを測ると3.935メートル(13尺)となっていた。今後、整理を進めていくことで、金沢城内で起きた火災との関連を明らかとし、礎石建物の時期をおさえたい。

側壁石垣復元工事に係る立会調査

  • これまでの調査により、鼠多門通路部分の側壁石垣は切石積石垣で、上半は明治17年の火災後に取り外され、門開口部を閉塞する石垣に転用されていたことを確認している。鼠多門の復元に先立って、側壁石垣の復元工事が実施されたことから、石垣復元に伴う補足調査、石積過程の記録作成のため立会調査を行った。明治に失われた石垣復元のための配石図を作成するに当たっては、調査で検出した石垣石を出来得る限り原位置に戻すことを目的に、三次元計測を実施した石材を3Dプリンタで出力し、石材の接合関係を確認し原位置特定に努めた。原位置を特定できなかった石材については、調査で確認した石垣の修理履歴(A類:江戸前期、B・C類:江戸後期)をできる限り復元することとし、その加工状況、焼損状況、鉛の付着状況等を詳細に調査した上で配石を行った。
  • 配石図に基づいて石積を行ったが、やむを得ず再加工した転用材についてはその部位を記録し、再加工の状況等について逐次写真撮影をするなどの記録を作成した。
  • また、一段ごとの写真測量を実施し、石積の状態を詳細に記録したほか、完成後は三次元レーザ計測を実施し、完成直後の状況を記録した。

近代の遺構

  • 鼠多門の調査では、玉泉院丸にあった近代の遺構も良好に残っていることを確認した。鼠多門が焼失する2年前の明治15年(1882)、玉泉院丸に旧陸軍監獄署の建物が落成した。それらの建物の一部は、戦後金沢大学の施設としても使用されていた。明治32年に建築されたレンガ積の基礎を持つ建物もその一つで、部室として使用され上部は木造となっていた。当初の上部構造は不明だが、レンガはイギリス積みという方法で積まれている。レンガ積の下はコンクリートの布基礎となっており、そのコンクリートを取り除いた直下に、前述した礎石群を検出した。
  • ほかに確認した近代の建物遺構の基礎は、布掘の中に大きめの礫を土とともに充填し、柱が立つ場所に礎石を置くという構造であり、コンクリート基礎は上部の重量を支えるためと考えられることから、当初は上部もレンガ積であった可能性が高いものと見られる。
  • また、約9,000点のレンガを取上げ、寸法・重量を計測したほか、外面観察を実施した。刻印は2種類あり、刻書「足羽郡福井」や墨書「泉州堺 上等品」なども見られた。

報告書の刊行

  • 平成10、12年度に実施した金沢城公園整備に伴う本丸附段、北ノ丸(御宮・藤右衛門丸)の発掘調査と、平成20、24年度に実施したいもり坂脇石垣の試掘調査と玉泉院丸の立会調査についての埋蔵文化財確認調査報告書『金沢城跡-本丸附段・北ノ丸-』を刊行した(A4判 372頁、部数600、平成31年3月29日刊行)。

 

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お問い合わせ

所属課:教育委員会金沢城調査研究所 

石川県金沢市尾山町10-5

電話番号:076-223-9696

ファクス番号:076-223-9697

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