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更新日:2021年6月1日

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その他の事業(28年度)

事業概要

  • 平成28年度は、金沢城公園整備事業(県公園緑地課所管)に係る鼠多門・鼠多門橋と玉泉院丸南石垣等の計2 件の発掘調査及び出土品整理、報告書作成を行ったほか、石垣現況測量、ボーリング調査等を実施した。
  • 鼠多門・鼠多門橋の確認調査は、金沢城公園第三期整備事業に伴うもので、発掘調査については概要(後述:鼠多門埋蔵文化財確認調査)を示したほか、平成26・27年度発掘調査の出土品整理等を実施した。また、平成25年度に実施した玉泉院丸南石垣等の整備に伴う調査・工事報告書を刊行した。
  • 石垣現況測量については、数寄屋屋敷西堀縁・東ノ丸南面の三次元計測等を実施した。この他、数寄屋屋敷から本丸附段南側にかけて、ボーリング調査等を行った。

報告書の刊行

  • 平成25年度に玉泉院丸外周石垣修築等に伴い実施した玉泉院丸南石垣等の文化財調査及び工事報告書を刊行した(『金沢城跡―玉泉院丸南石垣等―』)。

鼠多門埋蔵文化財確認調査

調査の目的

金沢城公園第三期整備計画に係る鼠多門・鼠多門橋復元整備の基礎資料を得るため、遺構の遺存状況及び規模・構造等を確認することを目的として実施した。

調査の概要

  • 調査期間:平成28年5月16日~12月16日    調査面積:810平方メートル
  • 調査は、昨年度から調査を実施している鼠多門調査区を東側に拡張し、門正面の鏡柱・脇柱等の精査、門から紅葉橋に至る坂道部の調査等を実施した。また、新たに鼠多門橋調査区を設定し、鼠多門橋の橋脚や堀の護岸施設等の調査に着手した。
  • 調査にあたっては、金沢城調査研究埋蔵文化財専門委員会委員及び伝統技術(石垣)専門委員会委員の現地指導を受けた。

鼠多門の来歴

  • 鼠多門は玉泉院丸の北西に位置し、金谷出丸(現尾山神社境内) とは、鼠多門橋(木橋)で繋がっていた。鼠多門の創建時期については不明だが、城内の多くの建物が焼失した宝暦9年(1759)の大火では焼失しておらず、明和2年(1765)に鼠多門橋の架け替え、文化9年(1812)に鼠多門長屋の修理、文政4年(1821)に門付近の武具土蔵の新築等の記事が文献に見られる。
  • 金沢城は、明治4年(1871) の廃藩置県を経て、旧陸軍が管轄することとなり、明治10年には老朽化した鼠多門橋が撤去された。明治15年から玉泉院丸の北部は旧陸軍の監獄署として使用されるようになり、鼠多門は明治17年に焼失した。その後、門の開口部は石垣で閉塞され、門から紅葉橋に至る坂道も埋め立てられて平坦な敷地が造成された。第2次大戦後は金沢大学の用地として利用された。 

門、坂道の調査

  • 昨年度から調査を継続している鼠多門調査区では、門正面に当たる鏡柱・脇柱礎石、及び背面大柱の礎石に関する調査を実施した。その結果、明治17年の鼠多門焼失後に礎石は撤去されていたが、抜き取り後に充填されていた石等を取り除くと、本来据え置かれていた礎石の痕跡が良好な状態で見つかった。礎石直下の整地土は硬く叩き締められており、その広がりを精査したところ、礎石は一辺50~60cm前後の方形で、厚さ30~40cm前後であったことが判明した。
  • このうち脇柱(南)の礎石については、鼠多門橋調査区の明治期埋土中に転落した状態で出土した。この礎石の表面には火災で炭化した柱痕跡に加え、柱に巻かれていた金物の鉄錆が明瞭に残っていたため、脇柱の柱材寸法(27×31cm)が明らかになった。
  • 礎石等の他、鼠多門焼失時の路面も確認した。門内部は土間となっており、焼失時の被熱で赤く発色している部分もあった。また、旧陸軍が門周辺において、火災後に解体した側壁石垣の石材を利用して、門開口部を閉塞する石垣等を再加工した際の痕跡も確認した。
  • 門東側から紅葉橋へと続く坂道の調査では、坂道の両側に戸室石製の側溝があることを確認した。北側溝は、門背面の凝灰岩製の横断溝を経て、側壁石垣(南)際の凝灰岩製板石で作られた溜枡に接続していた。溜枡の規模は、内法で東西方向に82cm、南北方向に63cm、底面までの深さは77cmを測る。南側溝もまたこの溜枡に接続し、門内部で凝灰岩製の溝と蓋石の暗渠となり、門正面の鏡柱列より外側では、戸室石製の開渠となり、いもり堀へ排水していた。

櫓の調査

  • 鼠多門の外周規模は、西面の石垣天端石に残る段差と二重塀のホゾ穴等の加工痕跡や、建物の北東隅とみられる箇所で確認した根石等から、南北22.54m、東西7.82mと確定した。また、昨年度の調査では、床を支える束柱の礎石を多数確認していたが、特定するに至っていなかった、棟を支える中柱の礎石の位置については、旧陸軍によって礎石は抜き取られていたが、その根石となる遺構を櫓の北・南で1基ずつ確認した。
  • 鼠多門焼失後の門内部の埋土や櫓部分の整地土等からは、瓦をはじめとした多数の遺物が出土したが、櫓部分の建物外周からは、櫓の外壁に使用されていた黒漆喰仕上げの「海鼠漆喰(なまこじっくい)」の破片が出土した。黒漆喰は、炭を混合して黒色に着色した仕上げ材で、出土した破片では、下地の白漆喰の上に、2~5mmほどの厚さで塗り重ねられている。海鼠漆喰は、外壁の腰瓦の目地に漆喰を半円形に盛り上げたもので、出土位置や保存状態等から、明治17年に鼠多門が火災で焼失する前に、外壁の海鼠壁から剥がれ落ちたものと推定される。
  • 実物の破片が出土したことで、鼠多門の外壁に使用されていた海鼠壁は、黒漆喰で丁寧に仕上げた特殊な仕様で造られ、その色調は黒灰色を呈していたことが明らかになった。また、鼠多門の名前の由来との関連も想定される。
  • 黒漆喰仕上げについては、海鼠漆喰だけでなく塗籠壁(ぬりごめかべ)を含め、城郭建築では珍しい技法である。

橋の調査

  • 明治初年の鼠多門橋の古写真に写る橋脚のうち、鼠多門から1列目南側の橋脚基礎(1)と2列目の橋脚3本(2~4)を確認した。古写真に写ってない橋脚(5・6)は、それ以前のものとみられ、複数回にわたる改修の痕跡も確認した。また、橋の架け替えに伴う堀岸の施設も改修された形跡が見られた。なお、橋脚2~4の樹種は、マツ属複維管束亜属(ニヨウマツ類:アカマツまたはクロマツ)と同定された。

 

 

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お問い合わせ

所属課:教育委員会金沢城調査研究所 

石川県金沢市尾山町10-5

電話番号:076-223-9696

ファクス番号:076-223-9697

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