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更新日:2020年7月1日

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その他の事業(27年度)

鼠多門埋蔵文化財確認調査

調査の目的

金沢城公園第三期整備計画に係る鼠多門・鼠多門橋復元整備の基礎資料を得るため、遺構の遺存状況及び規模・構造等を確認することを目的として実施した。

調査の概要

  • 調査期間:平成27 年5月21 日~12 月18 日           調査面積:550平方メートル
  • 調査は、鼠多門が焼失した明治17 年(1884)以降に、旧陸軍が門開口部を閉塞した石垣及び門内部の埋土、櫓部分の整地土等を除去し、鼠多門の遺構等を検出した。また、撤去した閉塞石垣等の石材の一部については、三次元レーザ計測を実施した。
  • 調査にあたっては、金沢城調査研究埋蔵文化財専門委員会委員及び伝統技術(石垣)専門委員会委員の現地指導を受けた。

鼠多門の来歴

  • 鼠多門があった玉泉院丸は、古くは「西ノ丸」と呼ばれ前田家の重臣屋敷が置かれていたが、慶長19 年(1614)に、二代藩主利長が高岡で没した後、金沢に戻った正室の玉泉院(永姫)の屋敷地となり、玉泉院丸と呼称されるようになった。
  • 鼠多門は玉泉院丸の北西に位置し、金谷出丸(現尾山神社境内)とは、鼠多門橋(木橋)で繋がっていた。鼠多門の創建時期については不明だが、城内の多くの建物が焼失した宝暦9年(1759)の大火では焼失しておらず、明和2年(1765)に鼠多門橋の架け替え、文化9年(1812)に鼠多門長屋の修理、文政4年(1821)に門付近の武具土蔵の新築等の記事が文献に見られる。
  • 金沢城は、明治4年(1871)の廃藩置県を経て、旧陸軍が管轄することとなり、明治10 年(1877)には老朽化した鼠多門橋が撤去された。明治16年(1883)から玉泉院丸の北部は旧陸軍の監獄署として使用されるようになり、鼠多門は明治17 年(1884)に焼失した。その後、門の開口部は旧陸軍によって新たに石垣が構築され閉塞されたが、その周辺の石垣は現在でも江戸期の姿を留めている。

門部の調査

  • 門開口部を閉塞していた石垣を撤去、門内部の埋土等を掘削除去し、遺構を検出した。その結果、中央大柱礎石や切石積の側壁石垣が1~4段分残存(112 石確認)していることなどを確認した。
  • 中央大柱礎石には円形のホゾ穴があり、北側の礎石には明瞭に柱の根巻金物の鉄錆が残っていた。その鉄錆の痕跡と痕跡との間を測ると柱の太さは約40cm程度で、四角形の角を落とした八角形の形状が復元できる。中央大柱礎石の背面の側壁石垣には抉りが見られ、柱の規模等からこの抉り部分にも柱は入っていたものと推定でき、柱に合わせて石垣を削り込んだものとみられる。
  • 同様の抉りは、門の背面側の側壁石垣にも南北2箇所確認でき、背面大柱礎石は抜き取られて失われていたものの、背面大柱の位置を推定できた。
  • また、南側の側壁石垣には、門開口部に近い位置で、縦方向の溝を確認した。これは、脇柱との間に嵌板をした痕跡とみられ、脇柱の位置を推定する手がかりとなった。
  • 側壁石垣の表面は、火災による被熱で、表面が赤く変色したものや鉛瓦の鉛が溶けて釉薬状に付着するもの、亀裂や剥離、一部欠損するものも見られた。
  • 側壁石垣は、脇柱から中央大柱周辺にかけての切石積は、正面不整形な横長石材を布積みし、石材正面に意匠的な周縁加工を残さないことから、金沢城石垣編年5期(寛文~元禄年間[1661~1704])に属し、絵図・文献には記録が残っていない鼠多門の大規模修理が行われたとみられる。背面大柱周辺より外側(東側)の石垣は、石形が方形または縦長で明瞭な周縁加工を留める
    石材を含むことなどから、6~7期(江戸後期)の修理を経ていると考えられ、門開口部の隅角部とともに、文化9年の修理範囲に含まれる可能性がある。
  • 門開口部の石垣の隅角部は取り除かれていたが、下段の石は残っており、その前面には方形のホゾ穴があけられていた。北側の隅角部前面には、ホゾ穴のある敷石があり、手すりのような施設を取り付けるためのものとも考えられる。

櫓・坂道の調査

  • 旧陸軍が門の開口部を閉塞するため、側壁石垣の上部を崩したことにより、一部は失われていたものの、礎石や明治17 年の火災に伴う焼け面等を検出した。検出した礎石は、床を支えた束柱の礎石とみられ、火災によって赤変しているものが多く、中には柱の痕跡が明瞭に残るものや鉛瓦の鉛が熔けて釉薬状に付着しているものもあった。
  • 前面の石垣の天端石には、鼠多門や二重塀に関わる痕跡が残っていた。北側では、天端石を削って段差を設けている箇所があり、これは鼠多門の北西隅部分を表しているとみられる。また、鼠多門とその南北の土蔵の間にあった、二重塀の柱を立てたとみられるホゾ穴も多数検出した。また、土蔵の礎石についても一部検出している。
  • 鼠多門背後の平坦面では、石組溝を検出した。排水溝とみられ、紅葉橋から坂道が下って来る部分には戸室石が用いられ、南北に平坦部を横断する部分は、凝灰岩を用いて作られている。

 

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お問い合わせ

所属課:教育委員会金沢城調査研究所 

石川県金沢市尾山町10-5

電話番号:076-223-9696

ファクス番号:076-223-9697

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