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明治8年(1875) 津田吉之助設計
尾山神社 金沢市尾山町11-1
重要文化財 昭和25年8日29日指定
慶長4年(1599)に加賀藩初代藩主前田利家を合祀して創建された卯辰八幡宮を、明治6年(1873)に卯辰山から現在地に移し、尾山神社とした。
神門は、明治8年(1875)11月25日に竣工したもので、当時の金沢総区長であった長谷川準也と大塚志良兄弟などが発起人となって提唱し、設計及び造営工長に津田吉之助があたった。和漢洋の三洋式の折衷様式とも見える異様な形で、竜宮城を思わせるといわれ、石積みのアーチなどは、当時大いに新風を誇ったものであったろうが、一方では文明開化の西洋かぶれともいわれた。しかし長谷川準也の趣意書によれば、ことさらに珍奇をめざしたものではなく、強いて伝統を踏襲せず、堅固をめざしたものであるという。
初層の3連アーチの骨組は、完全な木造で、日本建築の技法でできている。3層目は、4方に5色のギヤマンを嵌め、ここに灯をともして金石近海を通る船に灯台の役目をしたという。避雷針の先までの高さは約25メートルある。
昭和60年「石川県の文化財」より
文久三年(1863) 御大工頭中村半左衛門造
(公財)成巽閣 金沢市兼六町1-2
重要文化財 昭和25年8月29日指定
文久3年(1863)に、加賀藩13代藩主前田斉泰が、生母真竜院の隠居所として、兼六園の南隅に建てたものである。金沢城の巽(南東)に位置するところから、はじめ「巽新殿」と称したが、明治になって、「成巽閣」と改称した。
この建物は、大名書院のように堅苦しくなく、女性の隠居所として、どこか柔らかい雰囲気がある。
謁見の間は、上段18畳と次の間18畳からなり、床・違棚・出書院・帳台構を備え、両室の境は武田友月の極彩色花鳥の欄間が入れてある。謁見の間と広間の西側は、1間半の入側で、その突きあたりに清香軒が続く。入側の外側に、1間幅の広縁を設けているが、9間半の長さ一杯に縁桁を通し、柱を1本も入れずに深い軒を拮梁で支えているのは見事である。
2階には群青の間・網代の間などがあり、総体として、2階は数奇屋風になりながら、華麗な色彩にあふれた江戸時代末期の大胆な意匠で、しかもすこぶる洗練されている。
清香軒は、8畳間の書院と3畳台目の茶室、4畳の水屋からなり、謁見の間の裏側にあって、飛鶴庭に面している。
書院は、意匠もひかえめな数奇屋風の書院。茶室の外側に、鍵の手に1間幅の土縁がある。飛鶴庭に辰巳用水から引き込んだ曲水を北側の角で土縁に導き入れている。冬の茶事に、雨戸を建て込んだ土縁の中に曲水が流れる趣向である。冬期以外は、雨戸をはずし、広い土縁が深い庇をかけて、庭と一体となって融け合う。
茶室の客席天井は、平天井で、細かい赤松の皮付と竹を交互に配した棹天井とし、板は杉板羽重、回り縁には杉磨丸太を用いている。床は原叟床の形式で、床柱は角竹、入隅の楊子柱、大きな墨蹟窓が端正な床構えを見せている。貴人口は、腰無しの障子を入れて欄間をとり、躙口は、通常のものと異なり1間の引き違いにしている。
昭和60年「石川県の文化財」より
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