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江戸時代初期
白山市
(石川県立白山ろく民俗資料館管理 石川県白山市白峰リ29-6)
重要文化財 昭和38年7月1日指定
もとは白峰村桑島の西島にあった建物で、昭和39年(1964)に所在地から手取川上流約2キロメートルの対岸の象ヶ崎に移築、復元修理されたのであるが、手取川ダム建設によって水没することになったために、再び移築されて現在に至っている。
この建物は、加賀地方南半にみられる民家の代表的なもので、切妻造り、木羽葺、石置き屋根の妻入り、2階建て。外壁は土蔵造りで、1階は、さらに下見坂を張り、2階は土壁を晒に見せている。正面妻入口には、1間通りに下屋庇を付け、この部分は土間にして板壁になっている。
間取りは、梁間中程の間仕切りで、表と裏の2列の間取りに分けられている。裏側にはウマヤ・カランスバ(唐臼場)など、山村農家の生活の特色をよく残している。
部材の仕上げはほとんどが釿仕上であり、鴨居も溝を彫らずに、付樋端という桟を材の下端に打ち付けて溝を造るなど、いずれも江戸初期まで見られる古い手法を伝え、石川県下では珍しい。
昭和60年「石川県の文化財」より
江戸時代前期
個人蔵 輪島市
重要文化財 昭和38年7月1日指定
下時国家と通称される。「下時国家」は、寛文10年(1670)、時国家12代藤左衛門時保の時に分家して加賀藩領のこの地に移り、藩の山役や塩吟味役を勤めた。現在の住宅は、寛文10年(1670)の分家のおりの建造と伝えられているが、確証は得られない。ただし、構造や技術から判断して、分家からあまり遅れない時期のものと見られる。
規模が大きく、桁行13間、梁行八間で、南向きに建ち、入母屋造り、平入りで、茅葺の大きな屋根であるが、勾配はやや緩く、4方に瓦葺の庇を巡らしている。
間取りは、奥能登農家の大型のもので、役宅部分は、庭に面して奥座敷・中座敷・下座敷と並び、前面の入側を、御縁座敷とよび、濡れ縁が付き、納戸には帳台構の跡が残っている。土間はすこぶる広く、主屋の間口の約半分を占め、3本の独立柱や幾重にも重なる巨大な梁組に、下人を使って大手作りをしていた大農家の往時の生活をしのばせるものがある。
昭和60年「石川県の文化財」より
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