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寛永19年(1642) 伝山上善右衛門造
那谷寺 小松市那谷町
重要文化財 昭和25年8月29日指定
山門を入って参道を進むと、右手の山腹に鐘楼と護摩堂が見える。
護摩堂は、桁行3間、梁行3間、単層で、入母屋造り、平入り、柿葺、二軒繁たるきで、1間の向拝をつける。4方に縁を巡らしているが、高欄はつけていない。4面の壁板には、躍動する9頭の唐獅子と牡丹の浮彫があり、頭貫の下に、波と菊の図の透欄間を入れて、明り取りにしている。
組物は、阿摩組(三斗出組で丸桁を支える組み方)で、その中備にはかえる股を入れて動物を彫っているが、かえる股と欄間には極彩色の跡が残っている。
内部は中央に護摩壇を設け、正面に不動明王を安置し、その背の壁板には金箔が施されている。禅宗様を基調にしながら、和様の手法を巧みに折衷させた自由奔放な設計で、桃山時代の華やかな感じを残す建築である。
昭和60年「石川県の文化財」より
寛永19年(1642) 伝山上善右衛門造
那谷寺 小松市那谷町
重要文化財 昭和25年8月29日指定
桁行3間、梁行2間の重層、入母屋造り、檜皮葺の鐘楼。この鐘楼は、袴腰の上に石造の台輪がある。他所の鐘楼と異なって、基礎から石積みを袴腰の上まで築き上げ、石造台輪の下の外側に木造の袴腰を付けているからである。
那谷寺の伽藍は、そのほとんどが禅宗様(唐様)を基調として造られているが、この鐘楼だけは、唯一つ純粋な和様で造られている。
山上善右衛門による作といわれるが、由緒書きによると、家伝の天台真言七堂伽藍の図を、加賀藩三代藩主利常に見せ、そのために那谷寺の工事を彼が担当することになったと伝えている。この七堂伽藍の図の伝承は、禅宗様を得意とする建仁寺流においても、和様の技法を尊重していたことを示しており、山上善右衛門一統は、禅宗様も和様も巧みにその技法を駆使した大工の集団であったといえよう。
昭和60年「石川県の文化財」より
寛永12年(1635)
那谷寺 小松市那谷町
重要文化財 昭和28年11月14日指定
この建物は、もとは那谷寺の寺坊不動院の建物で、寛永12年(1635)に、本堂などの建築よりも、5年も早く建てられている。
1番西側の土間は、潜り戸を付けた大戸が入口にあり、天井は塗り込めの壁天井となっていて、それに続く板の間が、炉を切り火を焚いたためにすすけた小屋組が晒になっているのと対照的である。書院は「御成の間」と称する、10畳間にかぎの手に1間幅(1.8メートル)の入側を巡らした部屋を中心に、5室からなる。この入側の外側に雨戸を建てこみ、その外に濡縁を付けている。この「御成の間」は、床と違棚が離れて付けられており、初期の書院造りの姿を残している。
建物の柱間は6尺6寸(2.0メートル)であり、関西系の山上一統の手になったものと考えられる。
昭和60年「石川県の文化財」より
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