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奈良時代から江戸時代
鹿島郡中能登町石動山・二宮(中能登町管理)
指定面積 315万6703平方メートル
国指定史跡 昭和53年10月25日指定
石動山(標高565メートル)は、石川・富山の県境を限る石動山脈の主峰。古くから「いするぎ」「ゆするぎ」と呼ばれ、円錐形の山頂は大御前・御前山と称されて、能登二宮の伊須流岐比古神社が鎮座する。南側に広がる平坦斜面全域が、古代・中世の石動寺(戦国時代以降の天平寺)の遺跡であり、中世には大宮坊を中心に300坊、3000の衆徒(いするぎ法師)を擁したとされ、近世には72坊、明治初年の瓦解時でも58坊を数えた山岳信仰(修験道)の拠点であった。「古縁起」は方道仙人を開山と述べ、林道春の「新縁起」は白山を開いた泰澄を開山とする。
中世後期以降の伊須流岐比古神社は「五社権現」とも称された。五社権現とは、大宮(伊なぎ諾尊・本地虚空菩薩)・客宮(伊なぎ冉尊・十一面観音)・火宮(大物主神・聖観音)・梅宮(天目一箇命・勝軍地蔵)・剣宮(市杵島姫命・倶利迦羅不動)の総称とされる。南北朝の争乱や天正10年(1582)の石動山合戦で再三にわたり一山灰燼に帰したが、その都度復興し、近世は寺領150石、寺域50町四方が与えられ、越後・越中・飛騨・加賀・越前・佐渡・能登7カ国を知行地として、知識米戸当り2升の徴集が保証されたといわれる。明治初年の神仏分離で一山が瓦解したあとは、山頂の大宮を麓に移し、旧神輿堂を拝殿とする伊須流岐比古神社と、58坊のうちの旧観坊一宇だけが旧態を保つにすぎない。
登山道7口のうち、能登側からの本道二宮口には、旧東往来(現国道159号)の脇に、凝灰岩の棟柱が残り、「石動山本社迄從是五十八町」とある。山頂下の尾根筋の石動山城をはじめ、各登り口の尾根筋には土塁・切溝・郭などが築かれ、一山巨大な山城となっている。大宮坊・東林院・道任坊等の石垣・石塁・講堂跡・五重塔跡・開山堂跡をはじめ二十数カ所の堂塔跡の礎石群、敷石道、経塚の石塔群等が、往時の盛況を物語っている。「いわしが池」の霊水を汲む7月7日の開山祭(お水取り)には、今も参詣者が富山県側に多い。また、石動の名の起こった「動字石」信仰も生きている。指定地域以外にも八大仙・桝形砦など関連史跡が多い。
昭和60年「石川県の文化財」より
江戸時代
加賀市山中温泉九谷壱・イ、山代温泉19区
指定面積 4万266.63平方メートル
国指定史跡 昭和54年10月23日指定
平成17年3月2日追加指定
平成18年7月28日追加指定
我が国の近世陶磁器「九谷焼」の発祥の地であり、大聖寺川に沿って山中温泉より南へ約14キロメートル遡った杉水川との合流地点にある。
昭和45、46両年(1970、71両年)度にわたり発掘調査が実施され、多大な成果を収めた。1号窯跡は、全長33メートル以上を測る連房式登窯で、燃焼室(胴木間)、13房(室)の焼成室、煙道部より構成される。焚口と天井部は欠損しているものの他は完存している。また、1号窯上方の、作業場と想定される地点から出土した「明暦弐歳八月六日九谷」銘の色見から、明暦2年(1656)という操業年次の一端が知られる。2号窯は、6房(室)よりなる同じく連房式登窯で、考古地磁気学推定年代は1710年である。また、文政6年(1823)に開窯した吉田屋窯は、4房(室)よりなり、燃焼室(胴木間)は県道により削平されているが焼成室は幅も広く立派なものである。
また、「ばっ憩紀聞」に記す「朱田」の跡も窯跡前面の水田中に現存している。
昭和60年「石川県の文化財」より
大聖寺川対岸の工房集落跡及び山代再興九谷窯跡の追加指定により、近世前期の稀有の色絵磁器である九谷焼の生産関連遺跡と、江戸後期に再興されて以降、今日までつながる我が国有数の窯業地として発展した山代の関連史跡の一体的な保存が図られることになる。
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