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更新日:2012年10月16日

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金沢城跡・珠洲陶器窯跡

金沢城跡 

金沢市丸の内71番18など25筆
指定面積  27万5155.14平方メートル

金沢城跡
国指定史跡  平成20年6月17日指定

金沢城跡は金沢市東部、小立野台地の先端部に立地する近世の平山(ひらやま)城跡である。天正8年(1580)、柴田勝家(越前国主)が、それまで当地にあった金沢御堂を攻略し、佐久間盛政が初めて金沢城主となり城郭整備に着手した。賤ヶ岳の合戦後、前田利家が金沢城主となり、3代藩主利常による寛永8年(1631)の大火後の造営で現在の城の縄張りが定まり、約300年間にわたって約100万石を領した前田家歴代の居城として継続した。
明治期以降は兵部省、陸軍省管轄、金沢大学のキャンパスとなるなど変遷があったが、平成7年(1995)の金沢大学移転後は、石川県によって都市公園「金沢城公園」として公園整備が行われている。
金沢城跡の主要な範囲は、本丸、二ノ丸、三ノ丸、新丸、金谷出丸など総面積約30ヘクタールに及び、重要文化財の金沢城石川門・金沢城三十間長屋・金沢城土蔵(鶴丸倉庫)などが伝わるほか、大規模な近世城郭としての縄張りと高い技術によって構築された石垣などが良好に残り、近世の大大名の政治権力や築城技術を知る上で重要である

 

珠洲陶器窯跡

珠洲市三崎町寺家タ部61番地、鳳珠郡能登町字行延六字20番1など89筆
指定面積  3万649平方メートル

珠洲陶器窯跡
国指定史跡 平成20年7月28日指定

珠洲陶器窯跡は、本州の日本海に突出する能登半島の先端に分布する大規模な中世陶器の窯跡である。東西約15キロ、南北約20キロの範囲内に窯跡が分布し、数基単位からなる支群が12、総計40基以上が丘陵上に点在している。珠洲焼は須恵器系の中世陶器で、近世以降生産が途絶したことから、その存在は戦後に確認された。
窯は12世紀後半ころから15世紀末ころまで継続し、製品は北陸から北海道に至る日本海側沿岸地域に広く供給され、城館や集落に普及した。窯の構造は基本的に単房の地上式窖窯で、最終末の西方寺1号窯のみは完全地下式である。
製品は還元焔焼成で灰色を呈し、器種は中世陶器通有の壺・甕・すり鉢の3種が大半を占める。初期には経筒・仏神像・水瓶等のほか土錘などもみられる。製作技法は、粘土紐巻き上げののち叩き締め・ナデで成形し、刻文・刻印・櫛目文のほか秋草文など豊富な文様を加える。
窯構造や製品の技術系譜は、東播磨の須恵器系窯を主とし常滑・渥美など東海の瓷器系窯の影響もみられる。窯跡の大半が能登最大の荘園である若山荘の荘域にあり、その関与が推定されている。珠洲陶器窯跡は、広大な北東日本海域に流通した大規模窯であり、この地域の広域の生産と流通の実態や生活や信仰、社会・経済のあり方を知る上で欠くことのできない遺跡である。

 

お問い合わせ

所属課:教育委員会文化財課 

石川県金沢市鞍月1丁目1番地

電話番号:076-225-1841

ファクス番号:076-225-1843

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