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更新日:2019年11月5日

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加賀藩主前田家墓所・辰巳用水附土清水塩硝蔵跡

加賀藩主前田家墓所

金沢市野田町野田山1番1号など3筆
指定面積  8万6294.35平方メートル

 加賀藩主前田家墓所の写真

国指定史跡  平成21年2月12日指定  

  加賀藩主前田家墓所は、江戸時代、加賀・越中・能登三カ国を領した加賀藩主前田家歴代の墓所であり、石川県金沢市の野田山に営まれた歴代墓所と、富山県高岡市に造営された前田利長墓所の2カ所からなる。加賀藩主前田家は、初代利家が織田信長・豊臣秀吉に仕え金沢城を居城とし、2代利長の時代には約120万石を有する全国最大の大名家となり、明治維新に至った。野田山の歴代墓所は、約86,000平方メートルの墓域をもつ。利家が自身の墓所としてこの地を占定し、以後、歴代藩主、正室、側室、子女墓、殉死墓が営まれた。各墓は土で築かれた方形墳を基本形態とする。藩主墓は3段に盛り上げた大型墳丘である。高岡市の前田利長墓所は、利長の三十三回忌に当たる正保3年(1646)、三代利常が利長隠居・終焉の地高岡に造営したもの。墓所は一辺約180mの正方形区画で、大名個人墓として全国最大級の規模を誇る。二重の堀で囲まれ、中心には、戸室石(安山岩)で化粧した二重基壇上に笠塔婆型墓碑が立つ。加賀藩主前田家墓所は、全国でも有数の規模と威厳を備え、方形墳という形態、利長墓所の規模・意匠等、近世の大名権力や墓制を知る上で貴重であり、保存状態も良好である。

辰巳用水附土清水塩硝蔵跡

金沢市上辰巳町壱字112番3  ほか597筆等
指定面積  179,643.87平方メートル

辰巳用水附土清水塩硝蔵跡の写真 

国指定史跡 平成22年2月22日指定
                       平成25年3月27日追加指定

 
    辰巳用水は、江戸時代はじめの寛永9年(1632)(寛永6年説もある)に金沢城の水利を改善する目的で加賀藩が造営した延長約11キロに及ぶ用水である。造営目的は、寛永の大火を契機とする金沢城の防火機能の向上、水堀化による防御機能の向上及び城内庭園の泉水供給等と考えられ、設計・施工には小松の町人板屋兵四郎が登用されたと伝えられている。 取水口は犀川上流の現上辰巳町地内に設けられ、江戸時代後期に2度、上流側に付け替えられており、上流部の開渠区間については、18世紀末までに隧道化が開始された。中・下流部の水路は開渠水路であり、最下流部では現在の兼六園から百間堀で隔てられた金沢城へ導水するため木樋を埋設した、いわゆる逆サイフォンの原理を利用し、二の丸まで揚水するものであった。これまでの発掘調査等によって、隧道に並行して走る開渠跡や、用水法面を保護する三段石垣等が見つかっている。 このように辰巳用水は、江戸時代の土木技術を知る上で貴重であることから、上流部、中流部を中心とした延長8.7キロを史跡に指定している。

    土清水塩硝蔵跡(以下、「塩硝蔵跡」と呼ぶ。)は加賀藩の黒色火薬製造施設である。金沢城からは直線距離で約4.5キロの辰巳用水の中流部に位置し、敷地面積は幕末時点で約11万平方メートルと想定されている。敷地の東側には辰巳用水が流れ、その水流を利用して水車を回すなどして黒色火薬が製造された。操業期間は万治元年(1658)から明治3年(1870)頃までと考えられる。

    塩硝蔵には黒色火薬の原料である塩硝(硝石)・硫黄・木炭が集められた。このうち塩硝は越中五箇山にて独自の製法により生産され、硫黄は越中立山で採取・精製され、木炭は塩硝蔵内の施設で生産された。これらは敷地内の諸施設で黒色火薬に加工された。

    これら諸施設の一部は平成19年度から22年度まで実施した発掘調査により、建物や施設の遺構が良好に残存していることが判明した。これにより塩硝蔵跡と辰巳用水が強い関連性を持った文化財であることが明らかとなり、それぞれの文化財的価値を高めるために必要な要素であることから、今回、辰巳用水に隣接する塩硝蔵跡の敷地を追加指定し、保護の万全を期するものである。

 

お問い合わせ

所属課:教育委員会文化財課 

石川県金沢市鞍月1丁目1番地

電話番号:076-225-1841

ファクス番号:076-225-1843

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