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個人 羽咋郡志賀町福野
江戸時代中期後半
県指定文化財 昭和61年3月22日指定
雄谷家は福野の豪農であり、近世初期に一時十村役を勤め、その後福野潟開拓に尽力し、千石百姓とよばれた名家である。主屋は、その雄谷家の屋敷構えの中心に位置している。平面形式は口能登に多い能登I型であったが、現状では増改築等により、鍵座敷型に近い型で使われている。架構については、軸組は基礎のかさあげや増改築による柱、梁などの入れ替えがあるものの、建設当初の形式をとどめている。小屋組は、中心部が未だ茅葺きで叉首構造を大半残している点で重要である。建設年代は明らかではないが、当家の言い伝え、家屋の造りなどから江戸中期後半と推定される。保存状況は良好であり、使用状況も上質で日本の優れた民家空間の展開を味わうことができる。雄谷家住宅には、主屋だけでなく、各種構成要素が一体となった屋敷構えの全体が現存している。石積みの濠、しっくい塗りの土塀とそれに一体化した蔵、塀越しに枝を伸ばす松といった美しく品性のある前構え、主屋、土蔵、左右の塀に囲まれた前庭のバランスのとれた空間、池庭、裏庭、セドなどの変化を持った庭、墓や山の神や裏門のある深い裏山など、主屋を中心に配置された各種の要素は、それぞれの用と美を見せながら全体として、十村役も勤め、豪農でもあった雄谷家の大きさと格と品性を示している。
大正12年
石川県
金沢市大樋町16-1
県指定文化財 平成元年3月23日指定
この建物は、大正12年に金沢第三中学校が開校されるにあたって建築されたものである。昭和42年、県立桜丘高校の新校舎の建設にあたり、旧校舎の大部分が取り壊されたが、わずかに中央玄関部と校舎の一部が多数の同窓生の強い要望により保存され、記念館(三桜会館)として使用されている。現在の形は、旧位置に一部残された校舎に中央玄関部を移転して取り付けたもので、かなり変形したものとなっており、内部の改造も著しいが、大正期の県内の中学校及び女学校校舎の中で唯一現存しているものである。明治期の校舎建築に比べて意匠的に簡素ではあるが、その風格ある独特の玄関や端正で清楚な校舎は大正期における校舎建築の造形水準の一端を示している。改造により原型がかなり損なわれているが、失われることの多い大正建築物の中でも特に数少ない校舎建築であり、その文化財的価値は高い。
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