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更新日:2010年9月14日

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瑩山紹瑾筆洞谷山置文・兀庵普寧墨蹟 大慧宗杲答呂舎人法語・往生要集 中

 瑩山紹瑾筆洞谷山置文(6通)

  鎌倉時代末期
  永光寺  羽咋市酒井町イ-11

瑩山紹瑾筆洞谷山置文

重要文化財  昭和41年6月11日指定

「洞谷山」とは、曹洞宗永光寺の山号であり、永光寺の開山で、曹洞宗総持寺派発展の基礎を築き、道元と並んで同宗の両祖の一人とされる瑩山紹瑾(1268~1325)が、元応元年(1319)に、永光寺を教団の中心とすべく門弟に示した自筆の置文(現在から将来にわたり守るべき掟を定めた証文)といわれているものである。「出家在家諸門弟一味同心し、当山を以て一大事とし偏えに五老峰を崇敬し奉り、専ら門風を興行すべし。是即ち瑩山が尽未来際の本望也。」とあるところから、「尽未来置文」と称されている。
ほかに、いずれも瑩山自筆と伝えられる、元享3年(1323)の寺域と寺領の範囲を示した四至堺田畠注文、同年の寺領寄進状の目録である文書注文と、寺領の所在と田積を記した寄田注文、正中2年(1325)に寺域内の松の伐採を禁じた山中禁制と、永光寺開基檀那の供養を指示した尽未来際勤行置文の5通の文書、さらに瑩山が用いた木印(印文「瑩山」)が一括指定されている。
写真は元応元年(1319)12月8日の瑩山紹瑾洞谷山置文。
昭和60年「石川県の文化財」より    

 

兀庵普寧墨蹟 大慧宗杲答呂舎人法語(1幅)

  中国南宋時代  兀庵普寧筆
  個人蔵  小松市
  縦  32.6センチ  横  75.0センチ

兀庵普寧墨蹟  大慧宗杲答呂舎人法語

重要文化財  昭和49年6月8日指定

 兀庵普寧(1197~1276)は、中国の西蜀(四川省)の人で、南宋後期の臨済宗楊岐派の禅僧である。無準師範の法を継ぎ、同門であった円爾弁円などの招きを受けて、文応元年(1260)博多の聖福寺に入った。
ついで京へ移り、さらに北条時頼の要請により、鎌倉の建長寺の2世となった。しかし、時頼の没後、よき信奉者が得られなかったことや、門徒の間で争論が起きたことなどにより、文永2年(1265)、滞在わずか6年で帰国した。
兀庵の書は十数点残っており、その書風は雄渾で迫力に富み、きわめて格調の高いものといわれている。
本書は、中国南宋初期の臨済宗の僧で大慧系禅門の祖である大慧宗杲が呂舎人に悟道の要諦を説いた法語を掲げたもので、兀庵の書風を示す代表的なものである。
昭和60年「石川県の文化財」より

 

  往生要集 中 (1帖)

  平安時代
  聖徳寺  小松市日末町丙98ー甲

往生要集  中

重要文化財  平成元年6月12日指定

聖徳寺本は、巻中の一帖のみであるが、長徳2年(996)の書写になる本である。体裁は粘葉装、現状は萌葱地花文緞子の後補表紙で覆うが、本文料紙と共紙の原表紙を存し、中央に「往生要集  中」と後筆の墨書外題がある。料紙は斐交り楮紙に押界を施して用い、首題は「往生要集巻中盡第六別時念佛門」とあるが、撰者名はその右下の表紙見返部分に「二本天台首楞巌院沙門源信撰」と別筆で書き加えている。本文は見開き面で半葉八行書き、糊付面は一行分を糊代として半葉七行書きで、一行十四乃至十六字に通帖一筆に書写しているが、帖中十丁分(五紙)の落丁がある。文中、帖末の余白に至るまで墨書きの脱文補入、注記、校異等の書入れが多数あり、また全文にわたって朱仮名、ヲコト点(第五群点)、墨仮名が付されている。帖末には尾題に次いで「長徳二年七月廿六日寫了  長胤」と書写奥書があって書写年時を明らかにしている。長胤については詳かでないが、長徳二年(996)は寛和元年(985)の『往生要集』撰述の11年後にあたり、源信在世中(942-1017)の写本として注目される。
なお、本帖は原表紙と帖首に「法隆寺聖霊院」の朱方印が捺されており、もと法隆寺に伝来したものである。

お問い合わせ

所属課:教育委員会文化財課 

石川県金沢市鞍月1丁目1番地

電話番号:076-225-1841

ファクス番号:076-225-1843

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