ホーム > 観光・文化・スポーツ > 文化・芸術 > 文化財 > 石川の文化財 > 書跡・典籍(国指定) > 後奈良天皇女房奉書(のとのくに云々)・手鑑 後鳥羽天皇宸記以下二百一葉・夢窓疎石墨蹟
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天文16年(1547)
気多大社 羽咋市寺家町ワ-1
本紙 縦 37.2センチ 横 44.5センチ
礼紙 縦 37.2センチ 横 41.0センチ
重要文化財 昭和25年8月29日指定
後奈良天皇(1496~1557)は、後柏原天皇の第2皇子。名は知仁。生母は勧修寺藤子(豊楽門院)。大永6年(1526)4月7日に後柏原天皇が崩御したあとを受け、同29日に践祚した。弘治3年(1557)に崩ずるまでの在位期間は、皇室の最も衰微した時代で、即位式は10年もおくれて、天文5年(1536)2月26日にようやく行われた。
女房奉書は、勾当内侍(女官)が天皇の意志を奉じて作成した仮名書きの奉書様式の書状。用語に独特の女房言葉を用い、本紙・礼紙2枚の料紙に、散らし書きされたものが多い。
内容は、皇室領であった能登国一宮気多社の年貢銭6000疋(天文13、4年分60貫文)が、諸負代官の守護能登畠山氏から、奉行の神祇伯雅業王を経て、上納されたときの礼状である。能登に下向した上乗院道喜(後奈良天皇の皇弟)の奔走によって、遅滞していた年貢の収納が実現したと見え、端裏書から、それが天文16年(1547)のものであるのがわかる。
昭和60年「石川県の文化財」より
飛鳥~室町時代
金沢市(金沢市立中村記念美術館保管 金沢市本多町3-2-30)
縦 40.7センチ 横 51.5センチ 厚さ 5.8センチ
貞和5年(1349)
金沢市(金沢市立中村記念美術館保管 金沢市本多町3-2-30)
縦 40センチ 横 60センチ
重要文化財 昭和36年2月17日指定
嵯峨天龍寺の開山、夢窓疎石(1275~1351)は、伊勢の人で、別に木訥叟ともいった。はじめ天台宗・法相宗の寺院に学び、やがて禅宗に転じて一山一寧に師事したが、ついで鎌倉万寿寺の高峰顕日の下に参じてその法を嗣いだ。北条貞時・後醍醐天皇・足利尊氏などの篤信をうけ、7代の天皇から国師号を贈られたことから、「七朝の帝師」といわれ、当代宗教界の第一人者として活躍した。その門下に、春屋妙葩・義堂周信・絶海中津などの優れた禅僧が輩出し、夢窓一門は臨川寺の三会院を祖塔として、五山禅林の主流派を形成し、臨済禅の黄金時代を開いた。
夢窓疎石の書は、一山一寧の影響をうけて行草の体をよくし、瀟洒で洗練された書風は、淡泊で気高く、清爽で格調の高い、日本的情緒といったものを感じさせる。
この墨蹟は、貞和5年(1349)、天龍寺の雲居庵に隠居していたときに書かれた偈頌で、夢窓疎石74歳の筆である。
昭和60年「石川県の文化財」より
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