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古墳時代後期
個人 羽咋郡
縦230センチ 横110センチ 高さ125センチ
県指定文化財 昭和35年5月27日指定
国指定史跡散田金谷古墳の石室に納められていた組み合わせ式の家型石棺。明治36年(1903)に地元の人々によって発掘された時に墳丘上に搬出されて、今日に至っている。凝灰岩の板石8枚を組み合わせた棺身と、内側を削り窪めた4枚の凝灰岩の表側に、千木を連想させる突起を4対8個(現存は3対)削り出した屋根形の棺蓋を伴う家型石棺である。
昭和60年「石川の文化財」より
縄文時代中期
かほく市
(かほく市七塚生涯学習センター保管 かほく市遠塚ロ57-6)
現高10センチ 底径7センチ
県指定文化財 昭和61年3月22日指定
昭和6年(1931)上山田貝塚(国史跡)の発見者久保清氏が発掘した。胴部だけで頸部から上の部分は欠失。現高10センチ、底径7センチで底面中央に径0.9センチの孔が焼成前からあけられているから容器ではない。慶應義塾大学名誉教授江坂輝弥氏は縄文後・晩期にみられる中空土偶の先駆形態であろうと説いているが学会の承認を得るまでに至らず、現時点では縄文時代の土製品に分類されている。この土製品の外面には、丸坊主の幼児とみられる人体意匠が施され、その左右に2本の隆線がある。幼児の左手を覆う隆線の先端には指が表現されているからこれを母親の左手と考えると、他の1本は右手になる。背中におぶさっている幼児を左手で支え、右手は腹部においている母親の姿が浮かんでくる。昭和29年国立博物館と朝日新聞社が共催して開いた考古展覧会で山内清男氏(当時東大講師)八幡一郎氏(当時国博考古課長)により母子像という名称で展示され全国に紹介された。隆線上に施されている綾杉状刻目文と幼児の頸部、四肢などに施されている連続爪形沈線文は中部高知の中期前葉末の新道式に盛行した文様であるから、この土製品は当該時期における北陸と中部高知の交流並びに縄文人の精神生活を考える上で特に貴重である。
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