緊急情報

閉じる

現在、情報はありません。

印刷

更新日:2021年5月2日

ここから本文です。

金沢城の年表

  

年号

西暦

出来事

天文15年

1546

本願寺末寺として金沢坊(金沢御堂・尾山御坊)を設置(金沢城の前身)

天正8年

1580

佐久間盛政が入城、土塁や堀を整備

天正11年

1583

賤ヶ岳の合戦において佐久間盛政が敗北
前田利家が入城し、これ以後金沢城として前田家が14代にわたり統治

天正14年

1586

天守構築。翌年に南部藩家臣北信愛が前田利家のもてなしを受け、天守をはじめ、城内の案内をされる

天正15年

1587

石垣職人の穴太源介に知行100俵を与え、召し抱える

文禄元年

1592

戸室石を利用した本格的な石垣構築を開始、東ノ丸東面・北面、本丸西面の石垣を構築

慶長7年

1602

落雷により天守焼失

慶長期

 

本丸南面・三ノ丸北面・尾坂門の石垣を構築

元和期

 

東ノ丸附段・百間堀縁などの石垣を構築

元和6年

1620

本丸焼失、翌年本丸御殿などを再建

寛永8年

1631

城下町から出火、辰巳櫓に飛び火し城内も延焼 【寛永の大火】
大火後の石垣構築・修築でほぼ現在の縄張りに近い状態に

寛永9年

1632

犀川上流から取水する辰巳用水を施工、城内に引水され城内外の堀が水堀化

寛永11年

1634

玉泉院丸に泉水や築山、御亭などを造成

寛永20年頃

1643頃

藩主不在、城内が荒廃

 

万治3年

1660

寛文元年

1661

5代藩主綱紀がはじめて入国、城内のみならず城下町整備や新田開発など文化振興に寄与

寛文2年

1662

城内の損傷著しい石垣箇所を修築。玉泉院丸色紙短冊積み石垣もこの頃に構築か
鉛瓦が普及

 

寛文11年

1671

宝暦9年

1759

城下町で1万軒以上が焼失、金沢城内でも本丸・二ノ丸・三ノ丸などの主要部が全焼する被害 【宝暦の大火】

宝暦10年

1760

幕府に城再建と石垣修築を願い出て、5万両を借り修築

宝暦11年

1761

河北門石垣を修築

宝暦13年

1763

五十間長屋石垣を修築

明和2年

1765

石川門石垣を修築

安永元年

1772

河北門を再建

天明8年

1788

五十間長屋や石川門などを再建

文化5年

1808

二ノ丸火災【文化の大火】

寛政11年
安政2年
安政5年

1799
1855
1858

地震による石垣被害が大きく、石垣を修築

明治4年

1871

兵部省(のち陸軍省)の所轄となり、多くの建物が払い下げ

明治9年

1876

河北門二ノ門の渡櫓や櫓台石垣を撤去するよう進達

明治14年

1881

二ノ丸御殿から出火し、御殿の他、菱櫓・五十間長屋・橋爪門など焼失

明治15年

1882

河北門一ノ門を解体、代わりに矢来門を設置

明治40年

1907

辰巳櫓下の高石垣が崩落、石垣が幅200mに渡り上部3分の2が取り壊され、現在残るように段を設けて改修

昭和24年

1949

戦後、金沢大学の敷地として利用

平成7年

1995

金沢大学の敷地を城外へ移転

平成8年

1996

石川県が土地を取得し、金沢城公園として整備を開始

平成20年

2008

国史跡に指定

平成22年

2010

河北門完成

平成27年

2015

橋爪門二の門・玉泉院丸庭園完成

令和2年

2020

鼠多門・鼠多門橋完成

  ページの先頭へ戻る

 

お問い合わせ

所属課:教育委員会金沢城調査研究所 

石川県金沢市尾山町10-5

電話番号:076-223-9696

ファクス番号:076-223-9697

より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください

このページの情報はお役に立ちましたか?

このページの情報は見つけやすかったですか?