ここから本文です。
ここでは、金沢城公園内で菱櫓等復元工事に活躍する、「伝統的建造技術を保有した職人」―石川の工匠―を紹介します。
天正11年(1583年)、金沢城に入城した前田利家は、城下町の建設を行うため、総構堀の建設や家臣団の配置、寺院の移転などを行いました。いわば都市計画を防衛目的のため行ったと考えられます。そのため、城郭や侍屋敷、町屋の建築を行う技術者集団が招聘され厚く保護を受けてきました。現在、市内には「大工町」の町名が残っていますが、これは、大工が屋敷地を与えられ保護されたたことを示しています。また、城内には「作事所」が設けられ、大工、左官、畳刺、木挽、石伐、建具職、屋根方職などが藩による建築工事に従事しました。
この城下町は「広大ヲナスコト江戸ノ風ニ近」(加陽御城下細見之図并武士町等之弁より)と言われたように、地方都市としては江戸に次ぐ規模で、従って建築活動量も膨大であったと思われます。
その後、幕藩体制の安定に伴って、例えば武具が実用的なものから装飾的な色彩を帯びるようになったように、加賀百万国の財力により、工芸文化の花が開きました。工芸品としては、加賀蒔絵や加賀象眼が有名ですが、建築技術も、それら工芸職人と競い合って、その伝統的建造技術を磨き続けてきたことは創造に難くありません。
加賀藩政300年間に華開いた工芸技術や建築技術は、明治維新以来、産業構造や消費形態の変化に伴い、伝統的技術から機械力に依存する形態へと徐々に変化して来ました。職人の手から手へという技術の伝承方法が機能しにくくなってきていることは否めません。
石川県が、金沢城址整備工事の中で菱櫓等の復元工事構想を明らかにすると、平成10年7月、社団法人石川県建築組合を始め、左官、板金、建具、石、煉瓦タイル、鳶、造園の各組合は「金沢城址公園(注:現材は金沢城公園)整備施工懇談会」を組織しました。これは、菱櫓等の工事では、伝統的建造物築造技術を保有する職人が、重要な職責を担うとの自覚に基づき、来るべき工事に備え先進事例の調査等を行い、職人の立場で県の設計に協力するというものでした。
そして、伝統的建造物復元工事に携わるこの機会に、石川の職人がその自らの伝統技術をさらに高め、さらには、伝統工法に携わる中堅職人を育成し、技術を継承することを目的に、この九つの組合は「石川の伝統的建造技術を伝える会」を組織しました。この会は、金沢城公園整備工事を舞台に、技術の研鑽と後継者の育成に取り組み、全国から「石川に伝統的建造物の技術者集団あり」と呼ばれることを目標に活動を行うものです。
石川県では、歴史の中で培われたきた伝統的建造技術は県の財産であるとの認識に立ち、「石川の伝統的建造技術を伝える会」の活動を支援し、石川の工匠育成事業を行っています。
金沢城公園整備工事で発揮されている石川の工匠の技を一部紹介します。
お問い合わせ
より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください
同じ分類から探す