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平安時代中期
龍護寺 羽咋郡志賀町酒見門前67
像高 120センチ
県指定文化財 昭和44年2月18日指定
かつて酒見の少彦名神社の本地仏と伝えられていたが、明治初年(1868)の神仏分離の時に龍護寺に移された。伝存する数体のなかで最も保存状態の良好であるのが、この薬師如来坐像である。他の如来・菩薩・天部像は、朽損が著しいが、一木造と背刳の構造を知るための参考品として、このうちの4体が金沢大学教育学部へ寄贈されている。構造は、一木背刳、添木式、彫眼、両手後補、白毫は水晶で八角。膝と両手を矧ぎ合わせ、背中から中を刳り抜いた一木造の坐像である。全体に穏やかな平安後期に近い作風があらわれてはいるが、まだ重々しい感じが漂うところがあるので、平安中期の作品と推定される。破損も少なく保存がよい。こうした背刳技法を用いる像は古くて、県内でも数少ない遺品といえる。胎内には、宝永3年(1706)9月に能登所口(現在の七尾)の中川吉右衛門良秋修理の墨書銘がある。
昭和60年「石川の文化財」より
鎌倉時代
高爪神社 羽咋郡志賀町大福寺ナ―58
(石川県立歴史博物館保管 金沢市出羽町3-1)
像高 84.8センチ
指定文化財 昭和44年2月18日指定
もとは、六社宮の本地仏と伝えられていたが、神仏分離以後は高爪神社の所蔵。寄木造、彫眼の薬師如来坐像で、当初は箔押しであったが、今は剥落している。胎内背面腰部に、不鮮明ながら次のような墨書銘がある。
(如) (女)
薬師□□ 承元二年□□二月□□□
(勧進)
大□□聖人 □□佛子□□
さらに腹部の修理銘に、「大仏師松井右近」 と書かれており、近世後期に修理されたことが知られる。胎内の墨書銘によって、鎌倉前期の承元2年(1208)に造顕されたことが確認され、在銘仏としては石川県内で最も古く、制作年代を確認できるために、古代後期から中世前期の仏像の年代を判定する基準となり得る希少な遺品としても貴重である。江戸時代にいう「能登十二薬師」の1つで、高爪薬師と呼ばれていた。
昭和60年「石川の文化財」より
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