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更新日:2010年9月22日

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玉泉院丸の発掘調査(21年度)

池の西部及び北東部でトレンチ調査を行い、庭園の中心をなす泉水関連遺構が比較的良好に残存していることを確認した。また、庭園造成土の下層から作庭以前にさかのぼる金沢城初期の遺構を検出した。

  • 調査期間 平成21年5月11日~12月22日
  • 調査面積 600平方メートル

主な成果

  • 旧県体育館跡地の3地点でトレンチ調査を実施した。
    泉水西部(第2地点、第3地点)では、池底、石垣、中島、出島等の一部を確認した。
    池底は、軍隊期の埋立土の下(現地表下3.9~4.1m)に位置し、地山を掘り窪めて整形していた。池底の堆積層から戸室石製の水鉢や、転落した景石等が出土している。
  • 池の西岸では護岸の石垣を確認した。石材は正面を平滑に整えた戸室石の粗加工材を用いており、金沢城石垣編年5期(17世紀後半、寛文~元禄期頃)の特徴をもつことから、五代藩主綱紀による再整備時の石垣と考えられる。周辺地盤との対比から石垣は本来5m前後の高さと推定され、池の西岸は岸の上下で大きな高低差をもつことが判明した。石垣裾の岸辺は玉砂利を敷き詰めて整えていた。
  • また、絵図にみる大中小3つの中島のうち、西側に位置する中島(大)の一部を確認した。岸辺は池底から緩やかに立ち上がり、高さが約1.5mある。景石を据え置いた痕跡等が見つかった。一方、池の北側から半島状に伸びる出島は、池底から1.9mの高さのある先端付近を確認した。岸辺には径約1.6mの安山岩自然石の景石が残っており、景石の表面には海岸から採取されたことを示す穿孔貝の巣穴が見られた。
  • 泉水北部(第1地点)では、深い池と岸辺の石垣との関係が明らかになった。出島から紅葉橋を経て北へ延びる「く」の字形の深い池は、作庭以前の堀を利用したものであった。堀は地山を約3.4m急勾配に掘り下げており、堀底幅が10m近い規模と推測される。構築時期の特定は今後の課題だが、おそらく西ノ丸期に遡る金沢城初期の堀であろう。
  • 東岸の石垣は、根石が堀底堆積層の上に設置されていたことから、作庭時に新たに構築された石垣と考えられる。最下段は金沢城石垣編年4期(17世紀前半、寛永期頃)の粗加工石積みで、2段目から切石積みに変化する。現在の地上部は宝暦9年(1759)大火後に修築された石垣である。石垣の基部が厚い整地層で覆われた現状は、修築の度に裾部を盛土で嵩上げしたことに起因していた。
  • 作庭以前に遡る遺構は、泉水北部の堀跡以外でも確認することができた。第2地点の石垣背後の盛土中では、幅約1.5m、深さ1mの河原石が詰まった溝と、これに併行する幅約2.3m、深さ約0.4mの竪穴状の掘り込みを検出し、第3地点の出島でも類似の河原石詰め溝跡が見つかっている。これらは石垣構築や出島造成に伴って一部が壊され盛土中に埋没することから、作庭以前に営まれていた西ノ丸重臣屋敷もしくは玉泉院屋敷に伴う遺構と考えられる。玉泉院丸庭園の下層には、金沢城初期の遺構が広範囲に埋もれている可能性が出てきた。

 

お問い合わせ

所属課:教育委員会金沢城調査研究所 

石川県金沢市尾山町10-5

電話番号:076-223-9696

ファクス番号:076-223-9697

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