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更新日:2022年7月1日

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城郭庭園等の総合研究(25年度)

事業概要

本事業は、金沢城に関する庭園の構造・機能及びその変遷等について、学際的・総合的に検討することにより、金沢城の特質を一層明確にし、併せて城郭の構成要素としての庭園の意義の解明に資することを目的とする。今年度は東ノ丸(池跡推定地等)の地質ボーリング調査、兼六園の遺構・絵図調査、二ノ丸の絵図・文献調査、尾山神社(金谷出丸)庭園の遺構・絵図・文献調査等を実施した。

主な成果

東ノ丸の地質ボーリング調査    調査地点(PDF:581KB)

  • 庭園関連遺構としては、本丸東堀と東ノ丸南部の池跡推定地がある。
  • 本丸東堀の北東端は、絵図によると幅が狭まり平面矩形となっており、近世後期以前には本体寄りのところに橋が架かる等、本体部分と異なった様相を呈している。堀北東端に相当する25 - 1 地点では、標高55 m付近で底面(地山)を確認した。堀本体部分の底面より1m以上高く、平面的に幅が狭くなっていることと対応する。本体部分とは別に、水溜・池として独立した機能を有していた可能性がある。
  • 東ノ丸南部の池(園池)については、近世前期の一部の絵図に見られ、近世後期の絵図では、その跡地とおぼしき平面馬蹄形の地形が描かれているが、不明な点が多い。2005 年度には推定地の南東で発掘調査を行い( 2005 - 7 地点)、板状の石材や景石と見られる戸室石等を検出した他、西へ向かって下降する地盤や堆積層を確認しており、近世初期の池あるいは築山の斜面部分である可能性が考えられるものの、詳細は明確になっていない。昨年度(H 24 )のボーリング調査では、近代の攪乱もあり、池に関わる土層は不明であった。本年度は25 - 3 〜6 地点が池跡推定地の範囲に相当する。このうち25 - 3 地点・25 - 6地点では、比較的均質な流入土と考えられる土層が造成土間に認められた。これらについては、池機能時に堆積した土層である可能性がある。ただし、25 - 5 地点等ではこれらの土層が確認できない等、整合的な解釈に課題が残っている。なお、25 - 2 〜8 、11 地点における地山レベルを見ると、南側へ下降しており、東ノ丸南部は南へ開口した谷状地形に相当すると考えられる。ただし25 - 5 地点〜25 - 7 地点のラインについては急激に落ち込んでおり、堀等大型遺構が重複している可能性も考えられる。この他、東ノ丸東面石垣の背後でも調査を行った( 25 - 9・10・11 地点)。このうち25 - 11 地点では、地山の状態は東ノ丸中央部以西と同様、固く締まった段丘堆積物層が連続する。一方25 - 9・10 地点では、上部の盛土は2m程度で、これ以下は非均質な砂質土が続く。この層については地山か造成土か判別が難しく課題となっている。

兼六園の遺構・絵図調査

  • 兼六園について、現況地形と近世後期の絵図とを照合する調査を実施し、翠滝周辺等において、近世以来の園路・地割等が良好に遺存していることを確認した。
  • 成巽閣について、飛鶴庭・清香軒等を見学した他、土台石垣の観察等を行った。

二ノ丸の絵図・文献調査

  • 二ノ丸御居間先等に存在した庭園について、絵図・文献資料を収集し、「御造営方日並記」等の内容と絵図との照合を行った。

尾山神社(金屋出丸)庭園の遺構・絵図・文献調査

 [尾山神社庭園について]

  • 尾山神社庭園(県名勝)は、社殿南側に位置し、東西約70 m、南北約40 mの池を中心に、南東に滝、南縁に築山を配している。池には3 基の中島とこれらを結ぶ5 か所の橋がある(明治10 年代まではもう1 基存在)。中島は琵琶・笙・鳥兜といった楽器・装束をかたどった形状を呈する。
  • 橋のうち琵琶島と鳥兜島を結ぶ橋(図月橋)は、3 連アーチの橋脚部が戸室石、本体部が腰瓦を埋め込んだ砂利混じり土、上部(路面部)が凝灰岩板石によってそれぞれ構成されている。
  • 尾山神社が創建された明治6 年( 1873 )頃の絵画には、現状とほぼ同様の形状が描かれているが、金谷御殿があった弘化・嘉永( 1840 ~ 50 )頃の絵図の描写とは一致しない。一方、「金谷御殿御普請諸事留」「成瀬正居日記」等の文献記録によると、慶応2~明治2年( 1866〜69 )、屋敷地全体にわたり、地割を含めて一新する大規模改修が行われており、具体的な状況は不明ながら、この時庭園の形状も変容したことがうかがえる。
  • 明治27 年( 1894 )刊行の「金城勝覧図誌」「兼六公園誌」には、この庭園について、金谷御殿(御住居)の主で、第十三代藩主であった前田斉泰(温敬公)が作り、好んだ庭と記されている。
  • これらのこと等から、現況庭園は金谷御殿(御住居)最末期の作庭であった可能性が高いと言える。(なお、『石川県の古庭園』(石川県教育委員会、1979 )には、現況庭園と類似した形状を描く絵図の写真が掲載されているが、時期・所蔵等詳細が不明である)。
  • 尾山神社創建時に庭園を「修繕」したとの記録があり(「尾山神社編年要誌」、『尾山神社誌』(尾山神社社務所、1973 )所収)、また上記の通り、中島の形状が神社に縁の深い雅楽の楽器・装束をかたどっているため、尾山神社との関わりを重視する見解も出されており(『金沢市史 資料編17 建築・建設』金沢市史編さん委員会、1998 )、築庭年代の確定にはなお検討を要する。

[調査について]

【遺構調査】

  • 滝周辺及び池西〜南岸を中心に略測・踏査を行った。
  • 築山東端に設けられた滝は、強い屈曲を重ねた流路を伴う段落ち型である。元は辰巳用水を水源としていたが、昭和38 年以来井戸水汲み上げによっており、その改修範囲・規模についての留意が必要である。滝口から下流部まで水平距離で約10 m、比高差約4mを測る。石組の石材は戸室石と大型の円礫が主体で、この他福浦石、滝坂石、坪野石、花崗岩等が認められる。
  • 池西岸一帯については、現況では藪に覆われているが、中島(鳥兜島)との間に明治10 年代まで架かっていた木橋の取り付き部分と推定される幅1間程度の削平段や、その周辺に散在する景石を確認した。

【絵図・文献調査】

  • 尾山神社所蔵の絵図・文献について予備的な調査を実施した。
  • 資料は明治期以後のもので占められていたが、神社創建時である明治初期の地籍を示す図等が多く残されており注目される。また昭和30 年代の修繕に関する資料も保存されている。

                                                                                                                                                                                                       

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お問い合わせ

所属課:教育委員会金沢城調査研究所 

石川県金沢市尾山町10-5

電話番号:076-223-9696

ファクス番号:076-223-9697

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