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ホーム > 観光・交流・文化 > 文化・芸術 > 文化財 > 石川の文化財 > 民俗文化財(県指定) > 鵜川のイドリ祭り・加賀鳶梯子登り・輪島の海女による伝統的素潜り漁技術

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更新日:2015年6月10日

鵜川のイドリ祭り・加賀鳶梯子登り・輪島の海女による伝統的素潜り漁技術

鵜川のイドリ祭り

所在地  鳳珠郡能登町及び穴水町地内
    (鵜川のイドリ祭り保存会  能登町)

〔餅改めの様子〕

県指定無形民俗文化財  平成20年4月28日指定
  
  鵜川のイドリ祭りは、鳳珠郡能登町鵜川の菅原神社で、11月1日から8日に行われる収穫感謝祭である。「イドリ」とは、非難することを意味し、祭りのしぐさに親しみを込めて、祭りの通称となったものである。
祭りは、当地の有力な地主であった伝兵衛が主賓となり、穴水町を含む6地区12組で行っている。2組が当番となり輪番制で執行される。この仕組み・運営は天文3年(1534)に現行のように整えられたとされている。
11月1日に、当元が玄関前にオハケを立てることから祭りは始まる。オハケとは長さ約5メートルの青竹に御幣、榊を取り付けた神降臨の目印である。その後、各家から米を集め、餅をつき、大鏡餅・トウシ餅・小餅を作り、同神社へ献納する。
  7日の夜、主賓の伝兵衛を迎えるのに、当番が7回使者を派遣し、8回目の途中で伝兵衛と出会い揃って同神社に入る、7度半の使いが行われる。各組の代表は羽織袴、伝兵衛は裃姿で、古式通り決められた座席につき祭りを始める。直会の膳が運ばれると、神饌とされた餅について、形・色・大きさ等についてイドリ(非難)と弁護の問答を重ねる餅改めにはユーモアがあふれる。
  やがて神職が仲介に入って、餅のできばえについて了解を受け、来年の当番へ引継ぎ式をする。8日のオハケ倒しをもって祭りは終わる。
祭り行事の内容及び祭祀組織は古来の伝統を伝えており、地方色豊かな祭礼行事として民俗学的に貴重であり、無形民俗文化財に指定し、その保存を図ることが必要である。

 

加賀鳶梯子登り

所在地  金沢市地内
(加賀とびはしご登り保存会  金沢市)

 

県指定無形民俗文化財  平成21年12月1日指定

   加賀鳶は、享保年間(1716~1735)に加賀藩五代藩主前田綱紀により、これまであった江戸本郷の前田家上屋敷(現東京大学)の消防組織を、拡充強化した自衛消防隊が起源といわれている。 その加賀鳶による”梯子登り”は、当時、火災現場で使用された梯子にいち速く登り、高い所から風向きや周囲の状況を的確に把握して、消火活動の助けにしたことがはじまりであったと伝わっている。 明治2(1869)年に前田慶寧が金沢に加賀鳶を呼び寄せて、藩の火消役として配置させており、江戸文化の流れをくんでいる。現在では、金沢市第一消防団から第三消防団により昭和48(1973)年に結成した「加賀とびはしご登り保存会」が、威勢と気魄を信条とした大名火消の伝統的な技を伝えている。 明治以来、消防組から警防団・消防団へと技を伝えてきたが、昭和45(1970)年に技を統一し、現在では、指揮者・纏持ち・演技者・梯子持ち・鳶口持ち・木遣隊により、加賀鳶木遣くずしを歌って始まる。 演技は、梯子の頂上から火事の状況や風向きなどを確認する「火の見」に始まり「敬礼」で終わる27種の技を1人がすべてを通して演技する。分団毎に、梯子持ちが高さ約6メートルの竹製の梯子を、長鳶口(長さ2.5メートル)、短鳶口(長さ1.3メートル)各4本の8人で支え、演技中はほかにもう1人が梯子を両手で支える。演技者は、法被・ぱっち・腹掛け・腕抜きをつけ、帯で結び、頭に手拭いを結ぶ服装で、梯子に登り、演技が決まったときには「はいー」と掛け声を発する。  周辺の纏持ち及び鳶口持ちは、演技者の「はいー」に続き「やー、やー」と掛け声で応える。 このように「加賀とびはしご登り保存会」により、伝統的な技が伝承されており、演技に使用する梯子についても、地元の竹細工職人から教わった伝統的な技術により作製している。また、定期的な練習を行うとともに、子どもへの伝承事業を開催するなど、伝統文化の保存と後継者の育成に努めている。 加賀鳶梯子登りは、「加賀とびはしご登り保存会」により、正月の出初式や金沢百万石まつりなどで公開されており、県民に最も親しまれている民俗芸能の一つである。 伝統的な技や保護団体のあり方は、地域的特色を示すもので民俗学的に貴重であり、無形民俗文化財に指定し、その保存を図ることが必要である。

輪島の海女による伝統的素潜り漁技術

所在地  輪島市海士町  地内ほか
(輪島の海女漁保存振興会  輪島市)

県無形民俗文化財  平成26年6月20日指定

  女性の素潜りによる海女漁は、世界的にみて日本と韓国(済州特別自治道)のみで行われている貴重な漁法である。日本国内では平成25年現在、17県において約1900人が海女漁に従事し、県下では、輪島市海士町を中心に約200人の海女が存在する。これは1地域の人数としては国内最大である。
 古くから輪島周辺は豊かな漁場として知られており、大伴家持が詠んだ長歌や今昔物語からは、今より1000年以上も前に、アワビを採る海人が舳倉島周辺で活動していたことがうかがえる。
 一方、現在の海士町の人々は、福岡県宗像市鐘崎から移ってきたと言われている。鐘崎から素潜り漁が伝播したとされる地域は九州を中心に点在するが、なかでも特に古い関係をもつとされるのが輪島である。
 永禄12(1569)年には、鐘崎から数名の漁民が能登国羽咋郡赤住村へ渡来し、鳳至郡の吉浦・皆月浦等で出稼ぎ漁を営んでいた。地元民はこの漁民を西国の海士と呼んだ。西国の海士達は、慶安2(1649)年10月には、鳳至郡地域内にある1000歩の土地(海士町天地)を加賀藩から拝領し、定住した。これが、今日の輪島市海士町の由来である。
 定住後、海士町では、水産業に携わり生計を維持してきたが、夏場の漁撈活動として、今日に至るまで重視してきたのが舳倉島、七ツ島、嫁礁などで行われる海女漁である。
 輪島の海女たちは、潮流を指標とし海況を把握する知識、海上からのぞむ山や岬の重なり具合から漁場を測位する知識、空や風向から天気を予測する知識などの伝承知をもって海に関わってきた。また、呼吸を補助する器械を使わず、オービガネなどの簡単な道具だけを用いて、身体ひとつで貝類などを採捕する高度な潜水技術を受け継いできた。
 現在まで海女漁が存続した重要な背景として地縁組織の存在がある。漁業者は、基本的に海士町を本拠とする自治会、舳倉島での居住に基づいた組割(アタリ)という二重の地縁団体に所属する。これらの組織は漁業にかかわる知識や技術の伝承母体となり、また独自に漁獲の制限を課すなど資源管理にあたっても重要な機能を有してきた。
 以上から、当該地の素潜り漁は、海士町が鐘崎から移動してきた漁民集団の定着によって成立したという個性的な由来を伝える点、数百年の長きにわたる里海と身体との直接的な関わりのなかで育まれた豊かな自然知識と高度な漁撈技術を受け継ぐ点、強固な共同体組織が技術の継承や資源管理に重要な役割をはたしてきた点において地域的特色を見出すことができ、民俗学的に貴重であり、無形民俗文化財に指定し、その保存を図ることが必要である。

お問い合わせ

所属課:教育委員会文化財課 

石川県金沢市鞍月1丁目1番地

電話番号:076-225-1841

ファクス番号:076-225-1843

Email:bunkazai@pref.ishikawa.lg.jp

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