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日本には庭が多い。東京や大阪のような、コンクリートのビルに囲まれた味気ない大都市でも、雲までそびえるような高層ビルに囲まれた狭い場所にすばらしい庭があり、都市の息苦しさをぬぐいさっている。日本や中国の庭に対する概念は、我々とはかなり違う。日本では、花が一本もない空間でも、庭園芸術に疎い人々の心をも引きつける見事な庭になりうるのだ。
日本の庭園に関して記述している最も古い書物は、万葉集という760首ほどの宮廷詩人や一般詩人の詩歌を集めた日本有数の詩集である。天武天皇の皇子である草壁皇子の歌に、「岩に囲まれ真ん中に島を配した池がありつつじに囲まれた土地」を賞賛する歌がある。日本庭園は19世紀初頭に芸術様式として生まれ中国庭園の影響を受けている。日本庭園に欠かせない要素として池と人口の島があり、さらに人口の丘、島をつなぐ橋、岩、石灯籠などが加わる。
日本の石川県の中心都市金沢は、有名な城下町である。壮麗な金沢城の他にも歴史的遺物が数多く保存され、江戸時代のままの街並では、細く曲がりくねった小道に立ち並ぶ古い武家屋敷を見て回ることができる。しかし金沢の見所は、なんと言っても加賀藩主の私庭であった兼六園である。兼六園は日本三大名園の一つとされている。兼六園は冬の雪吊りが特に美しい。雪吊りとは、古い松の枝を縄や棒で支えるもので他では見られないめずらしい光景である。松の枝を縄で縛って冬の大雪で折れたりすることのないように守っている。石川県は日本海側に位置しているため、冬は豪雪地帯として知られている。
兼六園は、17世紀、有名な茶道家、武士、書道家、庭師、建築家である小堀遠州によって作られ、その後、金沢の城下町を築いた加賀藩主前田家によって拡張、整備された。金沢城のすぐそばに位置していたため、次第に金沢城庭園となり、さらに年月をかけて拡張された。
金沢城は岩の尾根の上にあり、封建時代の初めの戦国の世には、自然の砦を成していた。そのため、敵からの防御に優れていた反面、水を引くのが困難であった。特に、そのころの日本では火事が頻繁に起こっており、火事の際には難儀をした。1631年の大火の際には、火が風であおられ、城の建物の多くが焼失し、水問題の解決が緊急課題となった。そこで、前田家三代藩主が犀川の上流から水を引く方法を考案。これにより兼六園では豊富に水を使えるようになり、その貯水池が次第に兼六園の様々な池や小川を形作っていった。
兼六園は、自然を模した池や丘の多い巡廻型庭園である。広い敷地を有しており、広々とした静寂な空間、明るい眺望と奥深い空間を持ち、プライバシーの存在を否定する設計になっている。古代中国では伝統的に理想の庭園は六種類の美を兼ね備えているとされているが、兼六園はこの六勝を兼備している。六勝とは、宏大と幽遠、人力と蒼古、水泉と眺望で、それぞれ対をなしている。これら六勝を兼ね備えた庭園はまさに天の庭であり、兼六園は確かにその稀有な例の一つである。
兼六園は、300年以上もの年月をかけて整備される中で、さまざまなものが加えられてきた。しかし、樹木の多くは当初からのものであり、松の古木の根元にびっしりと生えた苔が、さらにその蒼古の美を高めている。もう一つの見所は、靄で霞むことで知られる大きな池の岸辺に橋を架けるように立つ石灯籠だ。ことじ灯籠と呼ばれるこの灯籠にも言われがある。もともとこの灯籠は、地面の上に置かれるはずだったが、運送中に二本の足のうち一本が折れ、繋いで直したのではその美しさを損ねるため、庭師達が考えて長いほうの足を池の中に置き、短いほうを岸辺に置く形にした。このようにして生まれた調和によりさらに美しさを増し、後に兼六園の最も有名な見所の一つとなったのである。
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